ひとむかし前の、民間保育園を思い浮かべていただきたい。オンボロ園舎前の庭には、ブランコや滑り台、そしてヨシズの張ってある砂場等があって、周りの草花とともにそれらが不思議な調和を見せてくれるものだ。子ども達が帰った後の保育室からは、あの物悲しげな足踏み式のオルガンの音色が、いつまでも聞こえてくるのであった。そんな園は、きまって訪れる人に、何ともいえない独特の郷愁を語るのである。当時の子ども達の家庭は、きまって何処も貧しい生活が多い。 子どもの服装だって、実に粗末なもので、黙っていれば三日も下着を取り替えてこないなんてザラにあった。食べ物にしても、給食のおばさんの得意な肉ジャガなんかが、この子ども達の主要蛋白源となり、迎えが遅い時は園長さんの家に泊ることになった。こんな時代だから、いまはやりの延長保育や夜間保育はごく当たり前に行なわれていた。そこには、公私混同的な体質構造があるやも知れぬが、何とも言えない不思議な「ぬくもり感」があったのである。そんな心の奥底に沁みいるような優しい「ぬくもり感」こそ、育ちゆく幼い心の拠り所となり、私達が目指している「ふるさと保育」の原点といえるのだろうか…。 いま、子ども達を育てる保育の領域にも、合理性を追求するマニュアル化が浸透し、コスト論や市場原理さえ問われる時代になってきました。地域社会には都市化が加速し、競争社会やコンビニ社会によって、子育て観も大きく様変わりしています。いつのまにか大人達が、利便化や効率化を享受する代償に、幼い子ども達の心とふれあう悦びを犠牲にしてきたのでしょうか。そのせいか子ども達の自己表現も、自然や人に寄り添う感覚が不足し、攻撃的、排他的に陥りがちな傾向になりますので、保育現場が意識してそれらを取りこんでいく基本姿勢が求められるのです。 『花をめでる人は多い。果実を求める人はさらに多い。芽を愛する人は、数多くない心友である。』 (倉橋惣三 戦後小編第四巻から) 例えば保育の日常では、散歩等でであう木の葉、草の芽、小石、蟻、ミミズなど身近な自然環境や小さな生命と応答的にふれあう生活があります。ちなみに、蝉が脱皮する場面等に立ち会う親子の会話からは、指示や叱責と異なる、優しい穏やかな口調や心地よい関係にあふれているでしょう。しかも、自然の素材といえば、一つとして同じものはありませんから、規格化された市販の教材では決して得ることができない、それぞれの個性が輝いているはずです。 それらを目ざとく発見する子ども達の五感の働きは、特に微細なものとか、弱小なものへの存在自体に、着目する力が潜在しています。なぜならこの幼い時期の特徴には、周りにある全てのものが自分と同じように考えたり、お話している存在として捉えてしまう「アニミズム」の世界があるからでしょうね。以下、当園職員による保育研究会「ふるさと保育」のアドバイザーとして活躍する武石宣子先生からのコメントです。
それでは、保育現場は一体この「ふるさと保育」を具体的にどう描き、実践していくのでしょうか。それは、発達年齢に応じてクラスごとに創造していくものですが、その前提として園全体のイメージを共有しておかなければなりません。例えば、自然環境を舞台にして、出来るだけ手足など素肌を使った活動体験を基本にするなら、一つの案として子ども達全員が、裸足や草履を履くことも検討すべきテーマになります。何故なら、靴や靴下の生活が当たり前になり、便利な乗り物が増えてきたことは、二本の足で身体を支え、動かす「足」のおかしさと係わっているからです。ちなみに最近の子どもが、転倒しやすくなったのも土踏まずの形成や外反母趾など小指が弱くなってきたことと全く無関係ではなさそうです。 ところで、ふるさと保育の核となるのが環境構成ですが、まず水、土、太陽等の自然の恵みをふんだんに活かしながら、泥んこ遊びや泥だんごづくり等が大胆にできるような条件を充たす園庭確保が欠かせません。理想的には、ビオト―プ(ラテン語ですが、ビオは『生命』・ト―プは『場所』をいう)のような自然環境の創設も課題ですが、それは簡単なことではありませんから、まずは計画的な園庭構成から開始すべきでしょう。 また室内環境でいえば、いわゆる教室的な保育環境から生活する空間への転換がテーマですが、それには温かい木の素材を使った家具や備品を中心に大胆なレイアウトが必要です。とりわけ、有害な塩化ビニールの玩具から、手ざわりのいい木製玩具に変えるための改善資金を確保する等、大いにこだわりの姿勢が期待されます。ちなみに、当園では全組に各40万円づつを保障した処、チームの保育者同士が徹底して討議しあい、意欲的かつ創造的な雰囲気が園全体に広がっていく手応えを感じました。 そして、保育現場もまた童謡やわらべ歌、それに日本古来から伝わる四季折々の行事や昔風の遊び、例えば草笛、こま回し、あや取り、お手玉を始め、仲間遊びとしての「はないちもんめ」や「かごめかごめ」「あぶくたった」等、懐かしいいろんな遊びをひもといてみたいものですね。 皮肉なことに童謡やわらべ歌は、いまやお年寄の愛唱歌となってしまっているからです。一方、子ども達が野菜づくりの体験など畑遊びができるよう、近くにある貴重な農地を借用しています。 さらにそれを発展させ、食事づくりの領域でも産地直送の有機無農薬米にこだわり、遠く福島県鹿島町の農家から取り寄せています。それらは、有害な農薬の空中散布を避け、合鴨などを使いながらそれこそ手間隙かけた米作りですが、何より「作る人」と「食べる人」とが互いに顔の見える位置関係にあることがコンセプトです。それゆえこの夏、学童保育児の「ふるさとキャンプ」でも現地での貴重な援農体験から単なる物とお金のやりとりにない悦びや感動する心を得てきた手応えがあるのです。 こうして「ふるさと保育」には、実践する保育者の個性あふれる様々なアイディアがベースになってきます。そのための最低限の資金確保は条件ですが、いうまでもなく保育の原点は、手作りの世界の創設にあります。紙ひこーきを折るにしても、保育者から与えられたコンパクトな材料よりも、いろんな紙の素材を使って試行錯誤しながら完成させた悦びの方が、ずっと心に残るからです。それこそ「米百俵の精神」というのでしょうか、私達がじっくり腰を据え、子ども達の心の奥底に響き合う本物の保育を志向することにあります。 そのバックボーンとなるべき保育哲学といえば、大正から昭和にかけ日本のフレーベルと呼ばれた「倉橋惣三」先生から学ぶことにあります。 『自ら育つものを育てようとする心。それが育ての心である。世にこんな楽しい心があろうか。それは明るい世界である。育つものと育てるものとが、互いの結びつきにおいて相楽しんでいる心である。』 (倉橋惣三 育ての心(上)から) 彼は、幼子の無垢な心を管理的な社会から開放するために、その一生を捧げたのですが、それが半世紀を過ぎた今でもなお、いきいきとして深いロマンの世界を私達に感じさせてくれるのです。きっとそれは、子ども達の心に奥底に潜む自然志向や人と人がふれあう原点そのものが、今でも何ら変わっていないという証になるのではないでしょうか。それゆえ私達は保育者主導によるマニュアル化された保育で終わることなく、保育の本質論に入っていくことを目標にしながら、子ども達の心の世界に「ふるさとの原風景」を育んでいきたいものですね。
|